自己との対話
私と向き合うこととは、自己と対話をする、ということです。
自己との対話は、今、ここにいる私だけと向き合うわけではありません。
私をここに生み出してくれた両親との対話も含まれるでしょう。
先祖との対話もあるでしょう。
魂のバトンを渡してきた、私の過去生との対話もあります。
そして、それらすべては、私の未来との対話でも有り得るでしょう。
私は、一人ではありますが、同時に、一人きりではないのです。
私との対話を続けていくと、その確信をつかめます。
可能性が広がる、豊かで重厚な自己を発見できます。
*現在、セッションは休止しております。
おおいに納得する、腑に落ちる瞬間がある人生。
20年ほど個人セッションをしてきて、その最中にご相談者が、「ああ、そういうことか」、「そういうことだったんですね」、「すごくわかりました」などと、少し興奮しながら言われるのを聞いてきました。
それは、ご相談者が、おおいに納得される、腑に落ちる瞬間だったのですね。
人生で、その瞬間を体験できる人は、幸福でしょう。
その瞬間の体験は、私への信頼度が増すからです。
その人生には、ますます信頼の花が咲き誇ります。
私を信頼できる人生では、本気になれる、命がけになれるものとの出逢いを生みます。
それでは、どうしたら、その瞬間を持てるのでしょうか?
自己と向き合うことです。
私を他人事にしない、ことです。
他者との接触では、そこから得られる刺激で私は何を感じるのか、に注目し、その感じたことを土台に動いていくことです。
私は、セッションでは、ご相談者を映し出す鏡の役割でした。
その役割に徹するため、私は、一点の曇りも無いように、その時間、集中しました。
その中で、その瞬間を持たれた方々の大きく動く、高まった感情に出逢う幸福を得ました。
*現在、セッションは休止しております。
命がけになること、本気で生きること。
自由で平和な世の中の今、それは、大変ありがたいことなのですが、一方で、「命がけ」になりにくい、ということも、あるのではないでしょうか。
命がけになる、とは、本気になる、とも言い表せるでしょう。
すると、自由で平和な世の中において、命がけになること、本気で生きることは、至難の業です。
ならば、そんなもの、追いかけなくてもいいんじゃないか、もっと気楽に生きれば、となると思いますが、そうであれば、こんなにも悩む人々が多い、という現実を説明できません。
悩む人々は、もがきながら、それらを求めているのでしょう。
命がけになること、本気で生きることを通して、最大限の自己実現を達成させたいのでしょう。
そのために、私たちは、ここに、この時に、命を得て、舞い降りてきたのでしょう。
私たちは、ここに、この時に、照準を合わせてやってきたのなら、一人、一人が、それらを追い求めることが、世の中のためになること、社会貢献、です。
自分と向き合いましょう。
命がけも、本気も、もはや、国も、力のある他者も、与えてはくれません。
自己実現は、自身と向き合ってこそ得られる至福です。
*現在、セッションは休止しております。
生きる勇気、希望、が、持てる社会。母性豊かな社会。
生きていれば、悲喜こもごもの、さまざまな出来事に遭遇します。
特に、悲しいこと、つらいこと、苦しいことなどが起きた時、時間はかかっても、また、立ち上がって、前を向いて歩いていけたら、その後の人生は、そこでの貴重な学びをしっかりと生かしていけます。
そのためには、生きる勇気、希望、が、持てる社会、という器が必要です。
それが、生きやすい世の中、でしょう。
その器があれば、人々は、心に余裕が生まれるので、自分にも、人にもやさしくなれるでしょう。
自身の存在が、そこで受け入れられる喜びを実感すれば、私と差異のある他者も、自然に受け入れて、互いに尊重できるでしょう。
その慈愛の世界には、母性が必要と感じます。
母性豊かな社会は、人を生かします。
育みます。
今、そこに気づいて、と、強く言われているのではないでしょうか。
*現在、セッションは休止しております。
その後の苦しみ
最近、自死(自殺)のニュースを耳にする機会が増えました。
私は、セッションの中で、あるいは、自死されたご本人との接触を通して、その後について、知り得たことがあります。
それは、「苦しい」ということです。
ある故人は、その方の自死のあと、どうしてこんなことになってしまったのか、と、嘆き、苦しみながら、仏壇に手を合わせている、老いた母親の背中を、肉体の無い意識で、ながめていました。
そして、ごめんね、と言いたいのに、もはや、声も出ないし、そっと肩に手をかけることもできない、という虚しさに、苦悩されていました。
また、ある故人は、どうして自死するに至ったかを、私にこんこんと語って聞かせました。
しかし、同時に、遺してしまった、妻と子どもへの罪の意識にさいなまれていました。
その方も、もはや、ご自身の心情を言葉にして、家族に伝えることができない苦悩を抱えて、それを聞いてほしくてたまらなかったようで、その日は、ずっと私について来ていました。
その時は、私は、ある地方へ行っていて、宿泊先のホテルの部屋の中まで、その方がついて来ていたので、話を聞く準備が整うまで、そこで待ってもらいました。
その方は、ズボンのベルトで首を吊って亡くなられていたのですが、その時、私に見えていたのは、顔と膝下は消えていて、白いYシャツと、右手のみで、その手に、そのベルトがしっかりと握られていました。
私たちは、一人ぼっちでは生きてはいません。
自死をする人々にも、近しい間柄の方々が存在しています。
ご本人は、死ぬ、という目的を達しても、その後は、その方々との関係を無視することはできないため、ご本人も、そして、その関係者も、双方で苦しみます。
苦しみは、つらいもの、です。
私に接触を図る、自死された方々には、その苦悩をよく聞いた上で、死ねてよかったですね、と声をかけています。
まずは、その目的を達することができた、という認識を持っていただいて、ご自身の死を受け入れていただくことが重要と考えます。
セッションでも、自死された方の関係者には、いろいろとその方の心情をうかがった上で、その故人へ、死ねてよかったね、と言ってあげてください、と言います。
もちろん、まだまだそんな心境になれない、という時は、無理して、そう語り掛けることはいりません。
しかし、そう言ってあげて、心が軽くなりました、と、後々、言われますので、死者とその周辺の人々が、その方の死を受け入れることで、心は落ち着いてくる、そして、その苦しみも、ゆっくりと、だんだんと軽くなっていくようです。
故人とその関係者も、互いを映し合う鏡です。
私たちは、いずれ死にます。
寿命が尽きて死を迎える、ということと、自死では、その後、抱える苦しみの大きさに差があるようです。
*現在、セッションは休止しております。
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