やわらかくて、あったかいワードを近づけてあげよう。
幸せになりたい私達に、これから不要なワードは何か、と問われたら、「克己」、「臥薪嘗胆」、「艱難辛苦」などかなあ、と答えます。
そこには、苦労や苦悩が無しで、幸せなど手に入るわけない、という心理が存在していると感じます。
でも、程度があると思います。
それらが過ぎては、幸福は遠ざかるのではないでしょうか。
これまで真面目に生きてきて、自分を甘やかすことなくきたのに、望む幸福に手が届いていないとしたら、それは、自分に厳しすぎるのでしょう。
私の親は、戦中派だったので、「欲しがりません、勝つまでは」精神が染み付いていて、子どものしつけにそれを浸透させたかな、と思います。
自分に厳しすぎると、緊張してしまい、その心身の硬さは、幸福を呼び寄せません。
幸福は、やわらかくて、温かな場所に降りてきます。
「幸福」と聞いて、冷たくて、厳しずぎるイメージは持たないでしょう。
心を緊張させずに、求めるものを制限をつけずに求めながら、目標の幸福に到達しても、今さら誰も「贅沢は敵!」と叱りません。
これまで十分に真面目に生きてきた私達は、そろそろ古い価値観、常識を手放していく時期に入ったのではないでしょうか。
自分の身の回りから、つらくて、厳しくて、苦しいワードは、はずして、やわらかくて、あったかいワードを近づけてあげましょう。
今日から3月。
もう春、ですものね。
*現在、セッションは休止しております。
うぬぼれよう!
本日は、その続きです。
体の痛みは、心の痛み、です。
私は、自分を罰することを痛みで示していましたが、それは、同時に、心に何らかの痛みが生じていた、ということです。
それは、「私は、そんな痛みを受ける存在ではない」という怒り、でした。
怒っていたんですね。
罰せられるほど、低い人間ではない、と。
そこから、自分を痛めつけることは、ちっとも良いことではない、と言えます。
自分を卑下しても、報われることは無いでしょう。
心が晴れ晴れとして、夢や希望に向けて歩き出せるわけですから。
自分を低く見るのはやめましょう。
かわって、自分にうぬぼれましょう。
それくらいで、ちょうどいい、と思います。
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自分を罰してしまうこと。
この1年くらい、私は、体のある箇所が痛くて、苦しんできました。
その原因を、ある時、ガイドさんに尋ねたのですが、「それは、自分で作り出しているんだよ」と言われ、「???」と納得できなかったのですが、今朝、「ああ、そういうことか」と、やっと理解できました。
私は、その痛みで、自分に罰を与えていたのです。
どのような感情を持っても、どんな言葉を吐いても、それらは、すべて私自身なのに、そこに、悪い感情、悪い言葉、とレッテルを貼って、自分に罰を与え、その結果、痛みが生じていました。
公序良俗に反しなければ、捕まって罰せられることは無いわけで、そんなに自分を罰しなくてもいいはずなのに、知らず知らずのうちに、”世間様への顔向け”が関門となって、必要以上に、自分を罰しているのかもしれません。
罰せられる私は、窮屈です。
ストレスフルな日常を生み出します。
そこでの私は、信じられる存在ではありません。
そういった歪みが、今の不寛容な世の中を生み出しているのかもしれません。
世間的で善良そうな人々は、自分を罰しすぎて、その苦痛から、他者へ不寛容な攻撃の矢を放つのかもしれません。
そして、誰もが願う健康を損なう危機も、自分に与えてしまっているのかもしれません。
今が、変化の時なら、私達には、すべての私を、私のすべてを、受け入れる寛容さを身に着けるチャンスが到来しているのでしょう。
それは、正真正銘の自由の獲得、です。
念願の自由を手に入れたら、TPOをわきまえた言動が板について、「本音」と「建て前」を柔軟に使いこなせて、ますます末広がりな自由を謳歌できて、そんな私を、もはや疑い、罰する余地は全然ない、となるでしょう。
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金言
この言葉は、何度もこのブログに書いてきました。
改めて、今、この言葉は、金言だな、と感じています。
この言葉を口にすれば、たちまち能動的な人生を歩めます。
その歩みの先に、我が身を亡ぼす敵が出没するはずはありません。
どのようなことが起きても、「私に必要だったから」と思えば、そこから、その意味を探ろうと前向きになれます。
前向きな人生に、”克服”とか”打ち勝つ”などといった、硬直した厳しい言葉は似合いません。
すべての出来事を受け入れる”柔軟性”が、その人生を形成します。
”しなやかな強さ”が、人生を前進させます。
そして、人生の貴重な学びや気づきを与えてくれる、様々な経験は、すべて私の味方です。
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楽に生きる。助けてもらおう!
それは、楽な生き方、です。
人生、楽に生きていけたら、きっと、これまでの何十倍も、何百倍も、幸福になれるでしょうね。
だって、これまでの私達は、楽に生きることを嫌ってきましたから。
それでは、どうしたら、楽に生きられるか、ということですが、私は、「偏らずに生きる」ことだろうと思っています。
バランスよく生きること、でしょう。
そのバランスの両軸は、それぞれ、「私自身の努力や励み」と、「天に預ける」ことだと感じます。
「天に預ける」とは、目に見えない、わからない領域に我が身をゆだねること、です。
これほどまでに科学が進歩した今、見えない、わからない、といった不確かなことが、確かなこととともに存在してしまうことに、私達は、大きな不安と嫌悪感を抱いているでしょう。
その中で私たちは、見えないもの、わからないものを不要と排除し、それらへの畏敬を忘れてしまったのかもしれません。
そして、求めても、求めても、幸せにはなれない、という冷たい結果が、私達を打ちのめしている、と言ったら過言でしょうか。
私も、真面目人間(自称!)なので、これまで生きる努力を重ねてきました。
しかし、それは偏った生き方なので、どこか独善的な偏狭な硬い心を生み出していたようにも感じます。
ここ数日で、そのことに気づき、天にお預けする、という思いが芽生えました。
天にお預けする、とは、見えない、わからない、不確かな領域に我が身を預けて、そちらのパワーに助けてもらおう、ということです。
誰かに、何かに、「助けてもらう」なんて、堕落だと、これまでは思っていたかもしれません。
でも、「天に助けてもらおう」と思った瞬間、心がとても楽になりました。
そして、明るく、温かな光を感じました。
ああ、私は、生まれ変われる!、と思いました。
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